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 イギリスを構成する北アイルランドの首相に、初めてアイルランドとの統合を掲げる政党の幹部が就任した。

 イギリスは王制であり、正式名称は「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)」である。イギリスは、イングランド、ウエールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの地域から成っている。

 アイルランド島は12世紀にイギリスの支配下に入ったが、イギリスはプロテスタントの国であり、カトリックの多いアイルランドでは、19世紀になると、カトリック教徒が自治権拡大を求めるようになった。

 20世紀にはシン・フェイン党を中心に独立運動が激化し、アイルランド共和国軍(IRA)が武装闘争を開始した。1920年には、ロイド・ジョージ内閣がアイルランド統治法を成立させ、北アイルランドはイギリス領とし、それ以外の地域は高度の自治領とした。

 1921年にはイギリス・アイルランド条約が締結され、南部26州がアイルランド自由国として独立した。北部6州はイギリス領となった。

 しかし、北アイルランドでは、イギリス派とアイルランドの完全独立を主張する勢力の内戦が続いた。第二次世界大戦後の1949年には南部26州がアイルランド共和国として正式に独立した。

12世紀以降、北アイルランドにはイギリスからプロテスタントが流入しており、プロテスタントが多数派で、英国統治の継続を求めていきた。彼らは、ユニオニスト(英国派)と呼ばれる。一方、少数派となったカトリックは、イギリスからの分離・アイルランド共和国への併合を主張し、ナショナリスト(共和派)と呼ばれる。

 現在の政党は、前者が民主統一党(DUP)、後者がシン・フェイン党である。EUとの関係については、前者が離脱、後者が残留を支持する。

 両勢力による対立は、悲惨な流血の惨事を生み、第二次世界大戦後も1969年に紛争が始まり、爆弾テロなどを含む激しい戦闘が続いた。

 1998年4月10日にイギリス政府とアイルランド共和国政府の間でベルファスト合意が結ばれ、ユニオニスト、ナショナリストの両派により構成される自治政府が成立し、和平に至った。

 2016年6月23日に行われた国民投票で、イギリスはEUから離脱(Brexit)を決めた。そのため、イギリスと北アイルランドの間の物流が複雑化し、これにDUPが反発し、2017年1月に自治政府は機能を停止した。

 ところが、今年の2月1に、EUとイギリスが、英国本土と北アイルランドの通関手続きの簡素化で合意したことで、自治政府が再開された。2月3日、シン・フェイン党から初めて、ミシェル・オニール副党首が北アイルランド自治政府の首相に選ばれた。副首相はDUPからである。

 北アイルランドの両派とも、EU離脱決定後の措置によって、英本国に裏切られたという思いが強い。スコットランド民族党はBrexitに反対であり、独立志向を高めている。これらの動きは、連合王国の解体へとつながるかもしれない。

 離脱というハードルを乗り越えて、今よりも強い、そして今よりも豊かなイギリスを見ることができるのであろうか。北アイルランド問題も、Brexitの大きなツケであることを忘れてはならない。ポピュリズムがもたらした負の遺産である。

 

 

 新興のBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)が世界の注目を集めている。

 

20カ国から成るG20は1999年に始まったが、これは、G7にロシア、そして当時新興国と呼ばれたアルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、メキシコ、韓国、サウジアラビア、南アフリカ、トルコを加えた集団である。これら12カ国が、その後目覚ましい経済発展を遂げたことは周知の通りである。

 その国々の内、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの5カ国を、国の頭文字をとってBRICSと呼ぶが、これらの国々は、2000年以降に大きな経済発展を遂げたことが特色である。

この集団は、南アフリカを除く4カ国で2006年に発足し、2009年には首脳会議を開き、2011年には5カ国のBRICSとなった。「グローバルサウス」と呼ばれる「南」の新興国・発展途上国の代表として、欧米日先進国(G7)に対抗する勢力に成長した。

 G20 では、議長国がインドネシア(2022年)、インド(2023年)、ブラジル(2024年)、南アフリカ(2025年)とグローバルサウスが連続して務めることになる。

 

 BRICSに、今年、サウジアラビア、イラン、UAE(アラブ首長国連邦)、エチオピア、エジプトが新たに加盟する。これらの国は、各地域における大国である。実はアルゼンチンも加わる予定であったが、昨年12月に就任したミレイ大統領は、親米・反中国の姿勢を鮮明にし、加盟申請を撤回した。

 加盟国が倍増すると集団としての重み、そして多様性は増すが、分裂の要因もまた増えることになる。

 とりわけガザでイスラエルとハマスの戦闘が続いている状況下で、ハマスを支援するイランの加盟は、拡大BRICSの反米的色彩を濃くする。しかし、一方では、親米的なサウジアラビア、エジプト、UAEも加わるし、インドのモディ首相はイスラエル寄りである。

ロシアのウクライナ侵攻に対して、BRICSは制裁を加えたり、厳しく非難したりしていない。中国はロシアと友好関係にあり、南アフリカはロシアと合同軍事演習を行い、インドはロシアから武器を購入するなどしている。

 ウクライナ戦争勃発以降、グローバルサウスが流行語のようになった。G7はロシアの侵略行為を批判し、ロシア、中国、北朝鮮などの権威主義国家は、アメリカの1極支配を非難する。

 この両者の間で曖昧な態度を取っている発展途上国や新興国をグローバルサウスと呼ぶようになったのである。

今年のBRICSの議長国はロシアであり、ウクライナ戦争をめぐっても加盟国の思惑が異なり、親露路線を鮮明にしているイラン以外は、いずれも立ち位置を曖昧にしている。

 

 拡大によってBRICSは深刻な内部対立をかかえることになる可能性があるが、BRICSが、アメリカの一極支配、パックス・アメリカーナを揺るがす存在としての重みを増していくことは確かである。

欧米という「北」の先進国による支配に対して、BRICSに集う「南」の国々が増え、グルーバルサウスとして発言力を強化することは、多くの発展途上国の共感を呼ぶ。

 また、中東の石油産油国が加盟することで、資源エネルギーの観点からもBRICSの重みは増す。ロシア、サウジアラビア、UAE、イランが共同で、石油戦略を発動すれば、世界は大きな影響を受ける。

 さらに、これまでは南アフリカのみが加盟していたアフリカにおいて、ともに人口が1億人を超えるエジプトとエチオピアという二つの大国が新たに加盟することは、アフリカに対するBRICSの関与も深めることになる。

拡大BRICS の今後の動向を世界は注視している。

 

 

 

 

 

 1月8日、フランスのエリザベッド・ボルヌ首相が辞任した。後任はガブリエル・アタル国民教育相(34)で、第5共和制で最年少の首相で、同性愛者である。

  マクロン大統領は、多くの難題の解決のために政権運営に苦労してきた。今年はヨーロッパ議会選挙やパリ五輪が行われるため、政権の立て直しを図る決意で内閣改造を行ったのである。

 昨年3月には、年金の受給開始年齢を62歳から64歳に引き上げる法案を巡って、抗議デモがフランス全土で激化した。

 日本では定年退職後も働きたい人が多いが、フランスは逆で一日も早く退職して年金生活に入りたいという人が多い。だから、その時期を2年も遅らせるということに猛反発したのである。国の財政という観点からは、政府の改革案は妥当なのだが、フランス的生活様式に固執する国民は多い。

 12月には、不法移民の規制を強化する法案が成立した。フランスでは、移民は労働力として不可欠であるが、犯罪やテロの発生源となっている面もある。そのため、移民排斥運動が起こり、極右の「国民連合(RN)」が勢力を伸ばしている。移民排斥をうたう極右の伸張は、他のヨーロッパ諸国でも同じである。

 そこで、マクロン政権は、犯罪を犯した外国人を迅速に国外追放できるようにするなどの規制強化法案を提出したのである。この法案は、移民に寛容な左派からも、規制が生ぬるいとする右派からも批判されたが、採決では、極右の「国民連合」が一転した賛成に回ったために成立した。

 このような政治状況のために、マクロン大統領の求心力が低下したのである。

 若いアタル新首相の下で、マクロン政権のイメージはアップするのか。アタルは、私もフランス留学中にお世話になったパリの名門校「政治学院(Sciences Po)」の出身のエリートである。父親はユダヤ人で、反ユダヤ主義者や同性愛嫌悪者からいじめられた体験がある。

 そこで、アタルは国民教育大臣として、学校でのいじめを撲滅したり、一部のイスラム教徒の女性が着用して全身を覆う「アバヤ」を学校では禁止したりして、国民の人気を博した。政治家の中で、人気はナンバーワンである。そこで、マクロンが抜擢したのである。ただ、同性愛者という点では、保守層の中には反発する有権者も出てこよう。

 首相官邸での首相交代セレモニーでのアタルの演説をテレビ中継で聴いたが、自信に満ちた決意を表明し、好感の持てるものであった。直後の支持率は53%であった。その勢いを維持して、困難な改革を実行できるのかどうか、注視したい。